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最高裁判所第一小法廷 昭和58年(行ツ)140号 判決 1984年7月05日

愛媛県今治市本町三丁目一番地三一

上告人

葛山康史

愛媛県今治市常盤町四丁目五番地二

被上告人

今治税務署長

辻誠三

右指定代理人

亀谷和男

右当事者間の高松高等裁判所昭和五八年(行コ)第三号所得税更正処分取消等請求事件について、同裁判所が昭和五八年九月二六日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があつた。よつて、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告人の上告理由について

所得税法の資産所得合算課税に関する規定が憲法一三条、一四条一項、二九条一項の規定に違反するものでないことは、当裁判所昭和二八年(オ)第六一六号同三〇年三月二三日大法廷判決(民集九巻三号三三六頁)の趣旨に徴して明らかであり、これと同旨の見解の下に本件課税処分を適法とした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう部分を含め、独自の見解を前提として原判決を論難するものであつて、すべて採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 和田誠一 裁判官 藤﨑萬里 裁判官 谷口正孝 裁判官 角田禮次郎 裁判官 矢口洪一)

(昭和五八年(行ツ)第一四〇号 上告人 葛山康史)

上告人の上告理由

第一点 原判決は、日本国憲法(以後、憲法と称する)第二七条第一項「勤労の権利義務」と同第二二条第一項「居住、移転、職業選択の自由」とを上告人が侵害された事実を判決の事実欄に摘示せず、黙認した結果、判決に影響を及ぼすことの明らかな憲法第一三条「個人の尊重」、同第二九条第一項「財産権の保障」違背、及び判断を遺脱した違法がある。

上告人は控訴状の冒頭、控訴人の主張第一項において、本件の基調をなす重要事実、「本件は『人権侵害事件』の一環として引き起こされたものである」という事実を主張したにもかかわらず、原判決はこれを無視し、判決の事実欄に摘示せず判断を遺脱した。

本件は上告人の昭和五四年分所得税に対する安藤福夫今治税務署長の更正処分及び過少申告加算税の賦課決定(以後、更正処分等と称する)のあつた昭和五五年五月二六日に始まつたものでもなければ、上告人が確定申告をした同年三月一二日から始まつたのでもない。それよりはるか前、上告人がささいで不可解な理由により即時解雇された昭和五四年一月三〇日火曜日の前の週、上告人を解雇する計画が実行に移された時をもつて開始されたのである。

上告人があとを継いで株式会社松拝屋商店、株式会社今治板金の代表取締役になれば、メインバンク(主取引銀行)である中小企業金融公庫、即ち国への借入依存を極力抑えると共に、広域暴力団山口組(今治では森川組)を宇和島から高松までの事業所の労務情報収集等に使うことを一切禁止するであろうことは、上告人がこの訴訟で提出した準備書面等に見られる几帳面さ、自主独立性からも容易に予測されるところであるが、まだ上告人が役員にもなつていない平社員の段階で、即時解雇という暴挙に出るとは夢にも思わなかつた。メインバンクの力がいかに絶大であるかは公務員である裁判官には理解できないかもしれないが、山崎豊子の「華麗なる一族」という小説でも読めば少しはわかるかもしれない。マツチポンプは政治家だけにしていただきたいものである。いずれにしても本件は、不当な即時解雇(憲法第二七条侵害)→今治公共職業安定所経由の再就職を一致団結して拒否(憲法第二二条侵害)→長期間完全失業(甲第二〇号証、二一号証)→昭和五四年分給与所得〇円(憲法第二九条侵害)→『特例』資産合算(所得税法第二一条第二項、同第九六条~一〇一条)による更正処分等という連続し終始一貫した意図による『人権侵害事件』がその根幹をなしているのであるから、税金のみに矮小化してとらえることのないよう、充分注意していただきたい。

確定申告に行つたことがあれば容易にわかるように、納税者は何番の税務署員のところへ行くようにと指示され、そこで納税者が持つてきた源泉徴収票などを税務署員が調べて確定申告書に数値を書き込み税額を計算したら、納税者に署名するよう言い、納税者が署名したら、その確定申告書を税務署員が受取つて終了するのである。ところが上告人の場合、昭和五三年分の確定申告の際、そのようにして税務署員が書き込んだ確定申告書を、来週『自筆で』書いて持つて来るように言われ、言われた通り翌週持つて行くと、ただ写しただけなのに、正確に写したか確かめるためなのか、また計算して、税務署員が一部書直したら、計算に間違いがないという印を書き込んだりしてようやく終了したのである。ところが、昭和五四年分の確定申告の時は、二回目ではなく最初だつたのに計算間違いがないかを調べないばかりか、源泉徴収票を確定申告署にのりづけすることもせず、上告人が指定された番号の税務署員はただ「奥に箱がありますから、そこへ入れてください」とオウム返しに繰返すばかりである。上告人はその意味がわからず「え?」と何回も聞き返し、ようやく所得税課の奥へ歩いて行き、つきあたりを一八〇度う廻した片隅に小さい箱があり、その箱の小さい穴からわりあい大きい確定申告書を入れよ、という意味だということがわかつた。それにしても一列になって各番号の税務署員と納税者があい対している場所からは『死角』になつているところに置いてある『箱』に入れさせれた点で『異常な雰囲気』を感じた。それが何を意味するのか、二箇月あまりでわかつた。更正処分等の通知を受取つたからである。箱に申告書を入れさせれたのはその時が最初で最後だつた。昭和五五年分の確定申告は一部の数値を自筆させられたが、以後は人並みに署名以外は税務署員が記入し計算してくれている。それでようやく『自筆』させられたのも異常だつたということに気づいた次第である。乙第五号証は上告人の申告金額がわからないから提出を申立てたのではない。自筆に対しては、税務署員が記入した場合と違い、必ず行われる検算の印が、昭和五五年分の行本税務署員による赤えんぴつのチエツクや、昭和五三年分のような書直しが『一切無かつた』ことを、その『異常さ』を立証する為、提出させたものである。上告人と税務署員とのやりとりを聞いても、また、何ら納付不足など無いにもかかわらず、被上告人は更正不足分二〇〇円としてさらに上告人に損害を加えようとしたことを示す甲第一八号証、昭和五五年一〇月二二日受取りの東原作成による更正不足分納付書や、同年一二月一六日高松国税不服審判官の和田弘資が、葛山宣佳、素子の供述書に捺印するよう上告人の腕をつかまえて強要したあと釈明陳述書を書けと言つて上告人に渡した甲第一六号証のメモを見ても異常な様子がわかる。憲法第一三条によつて保障されている国民なのである。厳密さを要求される刑事裁判でも日にちや場所の特定ができない場合があるのに対し、自由心証主義程度でよい民事裁判である本件の場合、何月何日のみならず、必要なら午前、午後、何時何分まで特定ができるのである。

よつて原判決は、行政事件訴訟法第二四条「職権証拠調べ」の解釈、適用を誤り、憲法第二七条一項「勤労の権利義務」、同第二二条第一項「居住、移転、職業選択の自由」を侵害する事実を判決の事実欄に摘示せず、黙認したことによる、憲法第一三条「個人の尊重」同第二九条第一項「財産権の保障」違背、及び判断遺脱の違法がある。

第二点 原判決は、行政事件訴訟法第八条「処分の取消しの訴えと審査請求との関係」、同第一九条「原告による請求の追加的併合」の解釈、適用を誤り、審理不尽、理由不備の違法がある。

行政事件訴訟はあくまで訴訟、民事訴訟の一形態であつて、意議申立てとか審査請求という行政手続きとは次元を異にするのである。行政手続きを定めた国税通則法や行政不服審査法の中に併存説、吸収説とみなせなくもない箇所があるからといつて、そのことが直ちに行政事件訴訟の性格を方向づけるものでもなければ、決定するものでもない。訴訟においては、訴訟経済性、訴訟物理論の整合性、統一性が優先するのである。具体的にいうと、更正、再更正、再々更正、…と続く一連の行政処分による税額の増減は、訴訟の中では主張訴訟額の拡大、縮小にすぎないのである。増額再更正は吸収で、減額再更正は逆吸収、もしくは併存と訴えの利益で、という泥なわ式では、理論としての整合性も統一性もあつたものではない。この点で原判決、及び最高裁昭和五五年一一月二〇日判決(判例時報一〇〇一号三一頁)、最高裁昭和五六年四月二四日判決(判例時報一〇〇一号二四頁)は、行政事件訴訟法第八条「処分の取消しの訴えと審査請求との関係」、同第一九条「原告による請求の追加的併合」、民事訴訟法第二三二条「訴えの変更」、同第二二七条「訴えの客観的併合」の解釈、適用を誤つている。

さらに、増額更正は訴えの利益があるが減額更正には訴えの利益がないという点、問題がある。同一人の税金の場合でも実費控除のできる事業所得が減額された代り、定額控除しかできない給与所得が増額更正される場合があるし、所得税が減額され贈与税が増額更正される場合もあるし、当年度は減額更正になるが、同じ方式で推定され認定されたのでは翌年度以後大幅な増額更正になるという場合もあるし、複数人に関連する場合は一層こみ入つて、自分は多少減額になるが取引先は大幅な増額更正になるとか、あるいは本件のように完全失業者の上告人には増額更正、高額所得者の葛山宣佳や葛山素子には減額更正になる場合など、立法府や司法機関がそのすべてを掌握できる問題ではない。にもかかわらず一律に減額更正だからといつて、不服申立てを許さず、ひいては訴えを予め封じてしまうことは、憲法第三二条「裁判を受ける権利」を侵害するものにほかならない。

几帳面で、一般人のように仕事をさぼるようなこともしない上告人を、甲第一二号証「昭和五四年一月三〇日の上告人日記」や葛山宣佳に対する証人尋問調書などから明らかなように、愛媛県に提出する昭和五四年度建設工事入札参加資格審査申請書に上告人の名前が実態に反して使用されていることを指摘しただけで、これなら注意処分さえ不当なのに、こともあろうに即時解雇するという『鬼畜』のような親、また乙第四号証「葛山素子に対する質問応答書」、乙第六号証「葛山宣佳に対する質問応答書」や別件の損害賠償裁判での偽証、によつて上告人を『陥れる』ような親、葛山宣佳、葛山素子、だから税金が減額されたことを喜びこそすれ、その年度中完全失業していた上告人が増額更正されて困っているのに、取消訴訟はおろか、不服申立てさえしなかつたのである。これがまともな親なら、子供がするより先に減額更正された自分達の不服申立てや取消訴訟をするだけでなく、増額更正された子供の税金も肩替りするぐらいなのである。これなら確かに生計を一にしているといえるかもしれないが、本件の場合、上告人が自ら昭和五五年七月一六日更正処分等の所得税七一、一〇〇円を支払つている事実、甲第一七号証「更正処分等の督促状及び領収証書」からもわかるように、これと全く違うのである。乙第四号証「葛山素子に対する質問応答書」、乙第六号証「葛山宣佳に対する質問応答書」、及び甲第五号証「葛山素子に対する証人尋問速記録」は、葛山宣佳、葛山素子が自ら鬼畜であることを立証した貴重な証拠なのである。

経済性という点では国税通則法第九〇条「他の審査請求に伴うみなす審査請求」、同第一〇四条「併合審理等」があるではないかという反論があるかもしれないが、これは観点が間違つているのである。行政事件訴訟が通常の民事訴訟と多少異なるのは救済という点に関してである。この点からみた経済性によつて、行政事件訴訟法第八条は解釈され、適用されなければならない。具体的にいうと、取消しを求める当事者に多少任意性、随意性が生じるということである。訴訟物理論の整合性、統一性を救済という面からとらえると、既述の訴訟形式に再審要素を加味する必要があるかもしれない。

いずれにしても原判決は、行政事件訴訟法第八条「処分の取消しの訴えと審査請求との関係」、同第一九条「原告による請求の追加的併合」の解釈、適用を誤り、審理不尽、理由不備の違法がある。この違法は判決に影響を及ぼすこと明らかである。

第三点 原判決は、憲法第八四条「租税法律主義」の解釈、適用を誤り、判決に影響を及ぼすことの明らかな憲法第二九条第一項「財産権の保障」、同第三二条「裁判を受ける権利」違背がある。

最高裁昭和五三年(行ツ)第五五号昭和五五年一一月二〇日判決(判例時報一〇〇一号三一頁)「(『特例』資産合算に対する訴えは)ひつきよう、特定の法律における具体的な税額計算の定めに関する立法政策上の適不適を争うものにすぎず、違憲の問題を生ずるものでない」(以後、委任無制限判例と称する)という判例、論理のよつて立つところは、ジユリスト七八九号二二頁以後に解説されている「積極的規制と消極的規制、直接的規制と付随的規制」という分類基準にあると思われる。つまりこの分類基準によると、積極的規制は消極的規制よりも、また付随的規制は直接的規制よりも、憲法問題を生じることは少ないというのである。ところがこの分類基準は極めて不明朗なのである。例えば精神的自由権について、付随的規制によつて直接的規制と同じ効果を出すことは容易であり、抽象的すぎるが為に、恣意的とならざるをえないのである。直接的、付随的という分類基準では、実際上具体的に分類することは甚だ困難なのである。それではということで、一九六八年のオブライエン判決のように、ピユア・スピーチとスピーチ・プラス・アクシヨンという具体的、個別的分類基準をつくれば問題は解決するかというと、そうはいかない。というのは、この場合、発声できない身体障害者はどうなるのか、身体障害者とまでいかなくても「どもり」がちの人間はどうなるのか、健康な人間でも病気で発声できない期間はどうなるのか、という問題が生じるのである。身体障害者は切捨ててよいというものではない。それでは各人の場合に分けてさらに細かく分類すれば良いのかといえば、それは否である。なぜなら、それは後述するように「過剰介入の禁止」に該当するからである。ジユリスト七八九号二六頁下段の山川洋一郎の発言「そういう意味では端的に直接的規制ではないのでしようか。」からもわかるように、この分類基準は極めていいかげんなのである。それでもなおこの分類基準に固執するとすれば、結局のところ、憲法問題を生じさせたくない場合を積極的規制分野と言い、付随的規制分野と言替えたのにすぎなくなるのである。これを数字ではトートロジー、同語反復と呼んでいる。平凡社発行の哲学事典によると「トートロジーとは、形式的には真であるが実質的には無内容である」、つまり、委任無制限判例のよつて立つところの四分類基準は空虚な意味の無いものなのである。これによつて、違憲問題を生じない分野がかなりあるという分類基準、論理が失当であることがわかつた。

それでは即、憲法判断が可能になるかというと、実は憲法判断を実質的に制限する手法がまだ残つているのである。それが最高裁判例に出てくる立法府への委任無制限主義「憲法上租税に関する事項は法律又は法律に基づいて定められるところに委ねられている」という手法である。そこで、憲法第八四条は立法府委任無制限主義を規定したものなのか、立法府委任無制限主義は憲法上許されるものなのか、について検討する。

憲法一三条にしろ、同第一四条、二二条、二四条、二五条、二七条、二九条にしろすべて第三章「国民の権利及び義務」に規定されているのに対し、憲法八四条「租税法律主義」というのは第七章「財政」の中での規定なのである。第三章「国民の権利及び義務」の中でも基本的人権に関する規定は、憲法第一一条の文面からもわかるように「永久の権利」であり「現在及び将来の国民に与へられる」権利とされているのである。この永久規定となつている基本的人権の諸規定と、憲法九六条によつて改変できるような同第八四条とを、同一の次元で比較してもらっては困るのである。某政党は基本的人権規定の改変を党の方針としているようであるが、憲法第九六条により形式的に改変したところでそれは無駄な努力にしかならない。なぜなら、憲法第一一条と同第九七条との囲い込みという『憲法の構造』により、基本的人権規定の改変は無効となるからである。この『憲法の構造』に基き、憲法第一三条「個人の尊重」から同第二九条「財産権の保障」まで、基本的人権規定は同第八四条「租税法律主義」に優先する優越規定として確立されているのである。同第八四条が基本的人権規定に優先するという立法府委任無制限主義は本末転倒であつて、同条が立法府委任無制限主義を意味しないこと当然である。この論法が憲法上認められないことは『憲法の構造』から明らかである。

では『憲法の構造』からみた、違憲立法審査とはどうであるべきか、判例が盲信しているところの立法府委任無制限主義、立法裁量論というのは立法府を放認するということであるから司法にとつて一見消極的にみえるが、実は自らの守備範囲を大きく逸脱しているのである。このことが端的にあらわれているのは、議員定数不均衡訴訟においてである。つまり、選挙の投票価値は一対一でなければならないのであつて、一対三は有効で、一対五は無効であるなどというのは、立法府に言わせれば「よけいなお世話」というものなのである。参議員人気投票制度に対してなら最高裁判所の判断は正しかつたかもしれないが、残念ながら、そのような制度は実在しないのである。

法律により派生する諸々の現象、法律が適用され、適用されることになるであろう凡ての事実に対し、追認し、放認し、又は違憲問題を生じない分野であると、最高裁判所が『包括的に』判断し、若しくは予め判断することまで日本国憲法は許していないのである。桜島大噴火に際しての鹿児島測候所所長の愚、現実を把握し解析する能力はないが権限だけは持つているものによる現状の追認、放認、を繰返してはならないのである。測候所ならまだ各種観測機器があるからよいようなものの、複雑な社会現象を調査し分析する機関さえ持つていない最高裁判所が、各法律によつて派生し、適用されることになる現象、事実についてまで『包括的に、抽象的に、』合憲、違憲、若しくは違憲問題を生じないと判断し、自らの権限を振廻すことほど危険なことはない。日本国憲法によつて最高裁判所が許されているのは、訴えられた個別的、具体的事実につき、それが憲法に牴触しているかいないかを判断することだけなのである。そのあとは立法府の責任であり、行政府の問題である。「よけいなお世話」になることまで最高裁判所が考える能力も備えていなければ、資格も無いということを充分自覚していただきたい。

自然科学分野を例にとると、最高裁判所の違憲立法審査権の役割は、訴えられた事実が、既存法体系の「反証」、自然科学用語での「反証」となるかどうかを確定することにある。反証が次々にあがつては法的安定性を欠くことになると先廻りして心配するかもしれないが、「反証」によつて鍛えられ、「反証」を乗越えてきた自然科学体系は、社会科学体系、法体系にくらべて現在でもはるかに精緻であり、高度の論理的整合性を保持しているが、今後はさらに一層その差を拡大しようとしている現実を前にすれば、それが杞憂にすぎないということを充分納得されるはずである。能力がないのに権限を振廻したら、トートロジーに陥つたりすればどういうことになるか、ルイセンコ遺伝学派の末路をみれば良くわかる。衣服の立体裁断や、裁判所建物の構造設計、待ち時間設定を含む環境設計から建設資材の製造まで、植物の交配から飼料の配合まで、論理的整合性の象徴のような電子計算機が駆使されているのである。

訴えられた事実が、対応する、又は対応しない法律群の「反証」となるか否かを判定する基準、これを上告人は「『限定違憲』の法理」と命名する。この『限定違憲』の法理こそ『憲法の構造』にかなうものであり、これによって初めて、香城敏麿判事の違憲審査の分類基準や、判例、法学説は、トートロジー、堂々巡り、の呪縛から解放されるのである。

最高裁判例の立法府委任無制限主義や、判例が前提としている香城敏麿判事の分類基準の論理が失当であることは、合算課税方式という「税額計算の定め」による夫婦の租税負担に不利益をもたらす夫婦合算課税制度について、西ドイツ連邦憲法裁判所が基本法六条一項に違反し無効であるとした一九五七年(昭和三二年)一月一七日判決からも明らかである。救済されるべきは結果であつて、過程ではない。

よつて、原判決は、憲法第八四条「租税法律主義」の解釈、適用を誤り、判決に影響を及ぼすことの明らかな憲法第二九条第一項「財産権の保障」、同第三二条「裁判を受ける権利」違背がある。

第四点 原判決は、判決に影響を及ぼすことの明らかな憲法第一三条「個人の尊重」、同第二九条第一項「財産権の保障」違背がある。

税法は違憲問題を生じる分野でないという最高裁判例が失当であることは、第三点により明らかとなつた。そこで具体的に『特例』資産合算が憲法第何条に牴触するのかについて検討を開始する。

租税制度においては、控除というような次元を異にする救済規定は別にして、所得税法をはじめ、相続税法をはじめ、相続税法その他税法においても、課税単位は個人と定められており、このことは憲法第一三条「個人の尊重」からも当然である。被上告人が根拠としている『特例』資産合算中の条文全部は課税単位を個人でなく世帯にとつており、この点で「個人の尊重」は立法上、国政上最大の尊重を必要とするという個人主義国家観、新憲法全体を貫く基本理念を逸脱すること明白である。このことは、個人の所得から一義的に決まらなければならない課税標準、所得税額が、『特例』資産合算においては一義的に決まらず、自己以外の他人の所得によつて変動を余儀なくされることからもわかる。被上告人が「世帯単位」を「経済生活単位」とか「同一の生活共同体単位」と言替えたところで、憲法第一三条を侵害することに変りはない。同一の生活共同体というのなら、一般の結婚の場合もある程度そうだが政略結婚の場合はとりわけその両家族は緊密で高度の経済共同体を形成しているのが通常であるし、入会権や労役で結ばれている部落の場合も同様であるのに、一族郎党単位や部落単位が無いのはどういうわけか、被上告人の固執する世帯単位は、新憲法によつて、徹底的に排除されることになつた「家」の概念以外の何ものでもないのである。『特例』資産合算や、一族郎党課税、部落課税、さらに担税力の強い大企業サラリーマン合算課税は、個人単位課税制度に背くというだけでなく、憲法一三条を具体化した判断基準「過剰介入の禁止」にも反するのである。鍵尾丞治の主張「情誼の問題として法律が立ち入らぬことが良いのではなかろうか。」どころか立ち入つてはならないのである。「課税単位の問題については、憲法は、何ら触れるところがな」いからといつて、何を単位にとつてもよいというものではない。個人単位以外の単位をとると、先に述べたように「過剰介入の禁止」憲法一三条に抵触することになるから、それがフイードバツクされて、個人単位課税制度に落着いているのである。

「我が国の所得税課税は、明治二〇年の制度創設以来、『家』の制度を反映して、同居親族全員の所得を合算して課税する制度を採用してきたものを、昭和二四年のシヤウプ勧告によつて、根本的に改正し、以後、稼得者個人の所得に課税する原則を採用し、今日に至つているのである。すなわち、シヤウプ勧告は、

(ア) 世帯合算課税は世帯間に税負担の不均衡をもたらしていること、

(イ) 右世帯合算課税制度は世帯分割の誘因となること、

(ウ) 同居の事実の有無の判定が困難であるうえ、世帯合算課税の制度は税務執行を複雑化していること、

等の好ましくない結果を生じているので、従来の世帯合算課税の制度を改めて所得稼得者を単位として課税すべきであると勧告し、以後、これに従つて稼得者課税が原則とされているのである。

思うに、新憲法が戦前の家族制度を否定し、個人主義を標傍していること、かつ新憲法制定後三〇余年を経て次第に我々の日常生活に個人主義が浸透してきたという実績からしても、このような稼得者個人に対する課税が制度として採用され、かつ持続されてきたのは、当然のことなのである。」

これは上告人の主張ではない。大阪地裁昭和五四年(行ウ)第八三号昭和五五年九月一七日判決の被告、泉大津税務署長の答弁(判例時報一〇〇二号七四頁)なのである。上告人の主張が正しいことを、租税制度の歴史まで持出して泉大津税務署長は認諾してしまつているのである。右記の(イ)は『特例』資産合算が憲法第二四条「家庭生活における個人の尊厳・両性の平等」を侵害していることを示している。合算しないでほしいという訴えにはああ言い、合算してほしいという訴えにはこう言う、というのでは、原判決、被上告人共、二枚舌とみなされてもいたしかたない。

昭和五四年分確定申告に際しての今治税務署員の対応の異常さを、それ以外の年分のそれと比較すると、上告人の昭和五四年分確定申告に対する被上告人の態度は「しがない元失業者が還付を申告したければ勝手に申告しておけ、そのうちに税法知識と権力の優越的地位とを利用して重税を徴収してやる」というものであつた。これでは納税者の自発的な申告ではなくて、第二次世界大戦以前、旧憲法時代、に行われていた税務署長による徴税制度の復活にほかならない。新憲法施行以前と以後とを隔絶するのは、世帯単位から個人単位へ、徴税制度から申告制度へという点にあるのであり、この点こそ現行憲法の存在事由が如何なく発揮されているのである。被上告人は「申告制度」の何たるかもわきまえず、これを無視したのである。国民は奴隷でもなければ金の成る木でもない。各々が自らの意志を持つ人間なのである。葛山宣佳、葛山素子、及び上告人の責任と意志とによつて行われた昭和五四年分所得税の申告を被上告人は尊重しなければならないのである。にもかかわらず、この申告をないがしろにした被上告人は、新憲法の何たるかをわきまえていないとされてもいたしかたない。この「申告制度」という点でも、原判決は憲法第一三条「個人の尊重」に違背している。

上告人の主張する被上告人の態度は、上告人の勝手な想像で名誉が毀損されたと息巻くかもしれないが、被上告人が職務権限を濫用し上告人の財産権を侵害したことは、乙第一〇号、一二号証の資産合算のあん分税額計算書中、葛山康史の配当所得欄、三二六、八二五円を見ていただけば容易にわかることである。上告人は完全失業年度であつた昭和五四年分所得税の還付を受けるからこそ、乙第五号証の所得の内訳書中、最後の欄記載の少額配当六、八二五円まですべて申告したのであつて、もし『特例』資産合算で重税をかけられるのなら、申告を免除されている少額配当六、八二五円を申告したりするはずがないのである。即ち乙第一〇号、一二号証の資産所得合算のあん分税額計算書こそ、被上告人が申告制度の何たるかをわきまえず、職務権限を濫用し、善良な、なんら責むべきところのない国民、上告人、の財産権を侵害したことを示す『決定的証拠』なのである。

なお、更正処分と減額再更正処分の過納付、被上告人の過失により過納付させられた税額分の延滞利息も、被上告人は支払っていない。

以上、いずれの観点からするも、原判決は、判決に影響を及ぼすことの明らかな憲法第一三条「個人の尊重」、同第二九条第一項「財産権の保障」違背がある。

第五点 原判決は、判決に影響を及ぼすことの明らかな憲法第一四条第一項「法の下の平等」、同第二九条第一項「財産権の保障」違背がある。

昭和五七年六月二五日付被告準備書面第一項1号において、被上告人は昭和三一年一二月二五日付臨時税制調査会「最近の諸情勢に即応すべき税制改正の方策に関する諮問に対する答申」を引用して

1 一つの世帯に一人の所得者がいる場合と、二人以上の所得者がいる場合とでは、その世帯の所得の総額が同一であつても、累進税率の構造上、所得税負担の総額は、後者の方が前者よりもかなり少額となるが、それは、税制負担の公平という見地からみて軽きに失する。

2 現行の個人単位の所得税制では、実体が同じであつても法的構成を変え、所得者を多数とすることによつて、租税の負担を軽減することができる不合理があつた。

という二つの問題点があると主張している。まず1、の問題点の内、世帯単位の見方が失当であることは第四点で既述したので、それ以外の点について、所得税負担の総額が軽減できるというのは何も世帯に限つたことではない、いかなる単位をとろうとも、例えば閨閥や部落を単位にとつても、資産所得でなく給与所得や事業所得をとつても全く同じことが言える。即ちこの現象は累進税率の構造から生じるものであつて単位のとり方や所得の種別とは関係ない。また2、の問題点は、累進税率だからこそ所得者を多数とすることによつて、租税の負担を軽減することができるのである。つまり問題点は「二つ」でなく「一つ」である。いずれの問題点も、累進税率の構造から演繹された結果にほかならない。もし累進でなく一律税率であれば、前者後者の世帯とも、所得者を多数としてもしなくても、租税負担にかわりはない、とここまで解説すれば子供でもわかるはずである。二つの問題点と累進税率との間には合理的関連性があるが、二つの問題点と『特例』資産合算との間には合理的といえるような関連性など無いのである。凡そ人間の考え出す法則、規則で長所だけがあつて短所のないというようなものは無い、短所が気に入らないというのなら累進税率そのものをより高度な方式に改良すべきであつて、江戸のかたきを大阪でというようなことは許されない。可処分所得に占める固定費の硬直性を充分配慮できる大きな長所を持つ累進税率を採用するのなら、少々の短所は国が受忍しなければならないものであつて、それを失業して困つている納税者に押し付けるのは主客転倒も甚だしい。

という調子で論破されると思つてか、被上告人はこれだけしか主張しなかつたので、以後は東京高裁昭和五一年(行コ)第六一号昭和五二年一月三一日判決(判例時報八九〇号七八頁~八三頁)の判決理由が失当であることを証明する。前述の税調答申に出てくるもう二つの問題点、

3 『特例』資産合算を行えば資産の名義の分割等、表面上の仮装によつて不当に所得税が軽減されるのを防げる。

4 同居親族の資産所得は合算して累進税率を適用した方がかえつて担税力に応じた公平な負担になる。

のうち、3、は所得税法第一二条「実質所得者課税の原則」で対処できるから問題とならない。4、は資産所得だけ差別的に扱うということであるので、それが合理性を有するかどうかにつき検討する。高裁判例によると

5 資産所得にあつては、給与所得におけるごとき所得を得るための経費等担税力の減退を来たすべき事由がない

ということであるが、文中の「給与所得」は「給与収入」の誤りである。給与収入に限らず、事業収入にしろ、その他資産収入にしろ、経費等担税力の減退をきたすべき事由はあるのである。ただ、資産収入の場合はほとんど経費等の控除が認められていないのに対し、その他の収入は控除が認められており、この経費等控除の段階で担税力は補正済みなのである。そうであるからこそ、控除後の各所得を単純に加算したものがその年分の総所得となるのである。総所得に対する社会的控除は、資産所得だけ控除しないというようなことはなく、所得の種別に関係なく総所得のみに対し一律に行われるのである。

それでもなお給与所得にこだわるのなら、年間総所得が同じ三二万円の二人、配当所得だけの上告人と、年度途中から就任した給与所得だけの裁判官とが、住宅ローン借入れを申込んだ場合を考えたら、どちらに担税力があるか容易にわかるのである。資産所得のある上告人には一円といえども貸してくれず、給与所得しかない裁判官には数百万円かそれ以上貸してくれるのである。つまり担税力は所得の種別でなく、勤務先というような私的で個別的な要因により左右されるのである。給与所得者といつても大企業の場合、景勝地に建つ保養所の利用権まで含めて一人の労働資産は二億円、中小企業のそれは一億円、上告人が勤務しているような零細企業のそれは、失業、倒産が常態(甲第一〇号、一一号、二〇号証参照)であるから測定することさえ不可能な額のものまで、年間所得がたまたま同じ額になつたとしても、その担税力には雲泥の差があるのである。同様に三十二万円という月給か賞与と間違えられない年間総所得の上告人から、源泉分離課税をフルに使つて合法的に節税したり、『特例』資産合算を「回避」したりする高額の資産所得者までいるのである。高裁判決が採用する「一般の実情」というのは、こういうところに使つていただきたい。これで5、の論法が失当であること、明白となつた。

6 資産を分割することによつてその分散を図り、租税負担の軽減を図ることが容易である。

これも名義だけの分散に対しては実質課税の原則を活用すればすむから、問題は真実分散した場合である。が、分散は資産所得に限つたことではない。事業所得にしろ譲渡所得にしろ、あるいは給与所得にしろ、分散は贈与によつて行われるし、それのみによつて可能、つまり贈与税によつて捕捉されるのである。そうではなくて所得をもたらす源についての分散だとしても、種別に関係なく可能であるばかりか、資産所得や譲渡所得の源の場合、その分散が贈与税によつて把握できるのに対し、事業所得や給与所得の源に至つては、その分散が贈与税によつても把握できないのである。甲第四号証「火事がなければ見逃したのか『横井脱税』の国税庁」は、横井英樹が給与所得や事業所得の源を愛人に分散していたという事実を示している。これは横井英樹に限らず葛山宣佳もしてきたし、今年も丸十焼肉店から女店員を連れてこようとしたが、うるさい葛山素子が火曜日と土曜日は今治にやつてくる為、女店員の方が逃げ出したところである。国会においても、某政党の書記長は、こともあろうに国民の血税から愛人である秘書の給与所得を支払わせていたとして問題になつたぐらいである。こういう立法府だから憲法違反の『特例』資産合算が堂々と世の中に出てくるのである。

7 給与所得や退職所得のごとき勤労所得にあつては、それが勤労という個人の労働から生ずる所得であるが故に分散できない。とは経済オンチもいいところ。先日放送されたNHK特集「税金」の、小さい寿司店全員給与所得になつて万々才、でも見て勉強していただきたい。日本に限らず、会社の圧倒的大多数はこのような零細企業なのである。しまつの悪いことに、資産の場合と違い、給与所得の源の分散は贈与税によつても捕捉できないのである。

8 質産所得に関する限り、世帯主が世帯員のそれを管理・処分したり、一旦緩急ある場合には世帯員が自ら自発的に共同生活のために提供するのが、わが国における一般の実情である。

これもまた、資産所得に限らず、各種所得においても同じである。まだ資産所得の場合は贈与税によつて捕捉可能なだけましというべきである。もしそういう「一般の実情」が各種所得にあるとしても、そうでない少数派を切捨ててもよいというものではない。

以上1から8まで、いずれも資産所得を差別的に扱つてよいとする合理的理由など無いばかりか、「一般の実情」によると著しく不合理であることが判明した。

担税力に応じた公平な負担というのなら、源泉分離課税に違憲判決を出し、甲第一九号証に出てくる葛山宣佳、滝山アヤ子、滝山千束の脱税を取締つてからにしていただきたい。甲第一九号証の宛先は検察庁になつているが、検察庁は「どこの会社でもしていること」とものわかりがよすぎるので、昭和五四年九月六日午後五時前、今治税務署へ宛先訂正の上持つて行つた。これは上告人が不当解雇された為と気を回すかもしれないが、それよりも上告人の依頼した弁護士と葛山宣佳とが通じていたことが判明したことなどによる。ここでは上告人は葛山宣佳の個人的な脱税の内でも一つだけしか取上げてないが、これは別に葛山宣佳のことを思つてしたことでも何でもない。上告人の文書による正式の訴えを、塩崎潤や越智伊平国会議員、その他野間赳県会議員などを通して、もみ消すかどうか調べるためであつた。乙第七号証がもみ消した結果である。甲第一五号証、愛媛新聞記事「税務署汚職、前今治署長を逮捕、部下のワイロ受け取る」ぐらいだから、もみ消すことぐらい最初から予想していた。しかしながら、いくらもみ消したところで無駄である。なぜなら上告人自身が株式会社松拝屋商店の株主偽装工作をさせられていたからである。乙第七号、一〇号、一二号証は、被上告人が脱税者葛山宣佳には減額更正処分を、善良な国民であり納税者である上告人には、たつた三二万円の年間所得に七万余円という重税、増額更正処分を行つたことを如実に示す「証拠」なのである。もうすぐ確定する本件裁判と共に、被上告人今治税務署長が脱税者には減額更正処分を、脱税を通知した上告人には重加税更正処分を行つたという「歴史的事実」も確定するのである。

最後に、被上告人は昭和三一年一二月の臨時税制調査会の答申の内、自分に都合の良い部分だけを引用しているが、当該答申には、

「ただ、生計を一にする親族でも、『成年に達した』兄弟のように、相当独立した地位を占めているものについては、世帯主の所得とは別個に課税すべきであろう。」

ということが明記されているのである。

たつた三二万円の資産所得というだけで、他の所得より高率の重税を課するのは、イソツプ物語におけるセミ、日本ではキリギリス(給与所得のみ)を奨励し、アリ(給与所得と資産所得)が越冬する(失業期間を乗越える)のを阻止するに等しい。裁判所がこれを追認し、放認することは、アリ(給与所得と資産所得)を死に追いやることになり、『異常な価値観』というほかない。

いずれにしても、資産所得だけを差別的に取出して合算したり、あるいは個人単位を無視して世帯だけを差別的に区分したり、さらには『成年に達した』上告人を完全失業で給与所得が無くなつたからといつて差別的に重税に課する、という合理的理由などどこにも無い、というよりむしろ、合理性を明らかに著しく欠く作業といわなければならない。

よつて、この第五点においても限定違憲の法理を適用すると、原判決は憲法第一四条第一項「法の下の平等」、同第二九条第一項「財産権の保障」に違反しており、この違法は判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、原判決は破棄を免れない。

第六点 原判決は、憲法第二七条第一項「勤労の権利義務」の解釈、適用を誤り、採証法則違背、ひいては審理不尽、理由不備の違法がある。

労働は個人の経済生活を支えるという物質面だけでなく、人間の人格と直接結びつく精神面も不可分の性質として持つており、その意味で憲法二七条第一項「勤労の権利義務」は、単に同第一三条「個人の尊重」の経済基盤というにとどまらず、憲法の基本理念と対等の地位を占める重要事項である。上告人は、ほぼ一日おきに今治公共職業安定所に行き、甲第六号証から九号証の「求人情報」や求人カードを閲覧し、年令などの制限にかからない会社は片つぱしから、給与が低かろうと労働条件が悪かろうと、無条件で面接に行つたにもかかわらず、甲第二〇号、二一号証の不採用通知書からわかるように、ことごとく採用を拒否され、完全失業状態を余儀なくされた。これでもまだ失業給付金があれば助かるのだが、経営者の息子ということで今治社会保険事務所が雇用保険への加入を認めなかつたので、失業給付金ももらえなかつた。上告人は昭和五四年九月二七日、葛山宣佳が上告人に相続させないよう財産を処分することを認める代り、上告人の生活費を保障するという取決めを葛山宣佳との間で行つたからよかつたようなものの、そうでなければ今頃路頭に迷い、生活保護費を支給せよという裁判をしていたかもしれない。上告人が何かを請求したのは裁判によるのが初めてであり、上告人は、子供の頃から無口でおとなしく、要求をしなかつたこともあり、小遣いをもらつたこともなかつた。小学校五年生になり、上告人が学級委員になつた時、何か買つてくれるというのでカメラを買つてもらつたが、上告人が使う為でなく、以前から家にあつたカメラが故障していたのでその代品としてであつた。現在上告人が訴訟記録の撮影に使つている一眼レフカメラは、後に上告人のアルバイト料で購入したものである。高額所得者の一人息子でありながら、ステレオも無ければカラーテレビもない、自動車などいうまでもなく無い、という無いないづくしで今までやつてきた。生活費の保証を取決めていても、戦後混乱期の子供の頃のような質実剛健さなのである。まあ零細企業といえども勤務していれば、食費や衣服費ぐらい出す余裕はあるし、カラーテレビもようやく購入することができた。損害賠償裁判に勝てば、VTRを買うことができるのだが。「予定外」の本件訴訟費用や、高額な法律専門書がこたえるぐらいである。

憲法第二八条は実質的規定であるが、同第二七条は実質のないプログラム規定である、という見解は誤つている。憲法第二七条「勤労の権利義務他」は同第二八条「勤労者の団結権、他」の前提条件となる規定である。空虚な前提条件の上に実質的な規定など出来るはずがないのである。憲法第二七条をはじめ、第三点から、第五点までに取上げた同第一三条、一四条、二九条はいずれも日本国憲「法」の条文であり、「法」というからにはその守備範囲の広い狭いは別にして、何らかの強制権能によつて効力を確保された規範であつて、プログラムや宣言などではない。憲法の前文及び各条文が保有する最低限度の強制権能を「負の規制」と命令する。本件上告理由は、負の規制による限定違憲の法理に基くのであつて、これこそ憲法のビルト・イン・スタビライザーたりうるのである。

即時解雇により完全失業者となり、再就職をことごとく拒否された為、昭和五四年分給与所得が〇円になつたという、なんら責むべき事情のない上告人に、給与所得激減を根拠とする更正処分等による不利益を甘受させることは著しく不当であり、上告人の憲法各条文に基く主張を立法府委任無制限主義によつて門前払いにし、判断を示さなかつた原判決は、憲法第二七条第一項「勤労の権利義務」の解釈、適用を誤り、採証法則違背、ひいては審理不尽、理由不備の違法がある。

第七点 原判決は、禁反言の法理に違反し、審理不尽、理由不備の違法がある。

東京高裁昭和四〇年(行コ)第二八号昭和四一年六月一六日判決(別冊ジユリスト七九号三三頁)から引用させていただくと「禁反言の法理は『法の根底をなす正義の理念』より生ずる法原則であり、」「事実上の行政作用を信頼して行動したことにつきなんら責めらるべき点のない誠実、善良な市民が行政庁の信頼を裏切る行為によつて、まつたく犠牲に供されてもよいという理由」はない。また、「税法の分野に禁反言の原則を導入するについて、その要件及び適用の範囲を決定する場合に考慮を払うべき要素の一つとはなつても、この原則の導入を根本的に拒否する理由とはなり得ないもの」である。

そこで適用要件につき検討する。

1 「行政庁の誤つた言動をするに至つたことにつき相手方国民の側に責めるべき事情があつたかどうか」

葛山宣佳も上告人も、昭和五二年分確定申告に際し、世帯が別とか住所が別というようなことは一切言つてない、それどころか、同一住所で、葛山宣佳、素子、上告人連署で確定申告書を提出したのである。

2 「行政庁のその行動がいかなる手続、方式で相手方に表明されたか」

被上告人は昭和五二年分確定申告期間が始まる前に、右記三名に対し資産合算用用紙を郵送した。そこでその用紙を使つて確定申告をしたところ、上告人の分は返され、新たに「一般用」の昭和五二年分確定申告用紙を今治税務署員が取出し、合算して申告すると上告人の所得税が著しく高くなり不合理であるから、今後は上告人が世帯主として一般用の確定申告をするようにと口頭で教示され、今治税務署員自らがその確定申告書の各欄に数値を記入し、昭和五二年分確定申告を終了した。

3 「相手方がそれを信頼することが無理でないと認められるような事情にあつたかどうか」

今治税務署員により、資産合算用申告用紙から一級用申告用紙に取替えられ、修正申告させられ、その理由まで教示され、その上翌年、昭和五三年分の確定申告方法まで指定されたのだから、これほど確かなことはない。善良で誠実な納税者としては、それを信頼して行動するのが当然である。

4 「その信頼を裏切られることによつて相手方の被る不利益の程度」

完全失業年度分のわずかばかりの所得に対し、重税を課せられ、大損害を蒙つた。

これに対し、被上告人による本件更正処分等の必要性は、「租税法の違法の結果の是正の必要という、抽象的、名目的な理由以外には、格別、具体的、切実な公益上の要請があるとは思わない。」

従つて、原判決は、禁反言の法理に違反し、審理不尽、理由不備の違法がある。

なお、被上告人、第一審、第二審、判例、学説とも、資産所得に限らず分散ということを目のかたきにしているようであるが、実は、分散は憲法自体が要請していることでもあるのである。憲法第一三条はそれのみによつて成立するのではなくて、経済的裏打ちがあつてはじめて存立できるのである。こう言えばようやく目からウロコが落ちるかも、しれない。話はかわるが、昭和五六年八月一〇日付被告準備書面、別表(二)中の<1>、<2>、<3>、<4>の数値の意味と関連を被上告人に釈明させていただきたい。上告人が小学校低学年で四則演算もはつきり理解してない頃、試験問題に誤つて鶴亀算が出され、仕方なく自己流で解いた。その頃から一般と違い自己流の傾向が強かつたのかもしれないが「限定違憲の法理」とか「負の規制」とかを命名したからといつて、一九世紀後半のUSA国務長官シユアードのような「誇大妄想」と混同してもらつては困る。

以上

(添付書類省略)

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